この記事は、リアルより少しの間があります。
私が日記のように書いていたものです。体裁を整えて第1回目の記事とします。
父が亡くなって、半年が過ぎた。
父の月命日には、「今日はお父さんの月命日だなぁ」と思う。
それは悲しい気持ちを一緒に連れてきて、心臓がぎゅっとなって涙が出る。
父が死んだという事実を、未だに受け入れられていない。
実家に帰ると父の遺影が仏壇に置いてあって、つい最近まで、それをしっかりと見ることができなかった。「まるで本当のことのようだ」と思いたくなかったから。写真の前に立つとたまらなくなって、涙が溢れてくるのを、我慢するのがつらかったから。
私はまだ、父のいない現実で自分だけが年をとってくという事実を、受け入れたくない。
「レジリエンス力」という言葉の意味を最近知った。ざっくりいえば、さまざまな辛いできごとを乗り越えて、回復していく力のことらしい。
私は今、父のことを受け入れよう、この悲しみの山を乗り越えて進もうとしている。そうしないと生きていけないし、哀しみに暮れるほどの時間は社会人である私にはない。
けれども同時に、もう立ち止まっちゃおう、悲しみの海の中に沈んで、深くまで潜ってしまおうと思う自分も存在する。その誘惑のなんと強いことか。今まで通りに仕事をしながら生きていくことが、これほど辛く、残酷なことだとは知らなかった。職場の人は1カ月もしないうちにそんなことを忘れて、私だけがずっと哀しみを抱えて過去にいる。
心に蓋をして決して開けないことだけが、毎日を乗り越えていく唯一の方法になっている。だからふいにその蓋が開くとき、それは父の月命日や、父と似た人を駅で見かけたとき、記憶が脳を支配するとき、強い感情が押し寄せて、涙が溢れる。休まず今まで通りに毎日を生き続けている私は、レジリエンス力が強いんだろうか。レジリエンス力が強いことは、私にとっていいことなのだろうか。
父がいてくれたときの私には、もう戻れない。昔の私と同じように世界を見つめることはできない。私は父の死を、乗り越えなければいけないものだと思わない。結局のところ、私たちは全てを包括して、飲み込んで、生きていくことしかできない。それはもう、昔の私ではないけれど、なるべく現実を歪ませないで、ありのまま見つめていたいと思っている。
私がこのブログを始めることにしたのは、大切な人の死に直面した誰かに、そっと寄り添えるような何かが必要だと思ったからです。共有したり、新しい受け止め方を知ったり、そういうことができたらいいなと思っています。大切な人を失ったことの苦しみや心の傷は、現実世界の誰かに簡単に打ち明けられるものではありません。そして案外、みんなすぐに忘れてしまうものです。だから、匿名で顔のないこの場所が、私にとっても、傷ついている誰かにとっても、安らげる場所であれたらいいなと思っています。
今日の記事は、少しだけ前の私が書いていた日記を掲載したもので、今よりも心の傷と闘っているときのものです。同じように痛みに耐えている誰かに、そっと寄り添えますように。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
皆さんの大切な人は、いま、同じ世界を生きていますか?だとしたらそれは、奇跡みたいにすごいことですよ。
それでは、また。

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